ロックをたしなむ知り合いが昔から多く、演奏会に呼ばれることが絶えない。
そこでその晩ステージにあがる名もなきバンドを気に入ることもあるが、その場では断じて手売りのCDを買わないことにしている。
だいたいミュージシャンなどというものはおしなべて客には腰が低く、さっきまでステージで荒んだ詩をがなり世をはかなんでいたりして「お、いいなぁ」と思ったのに、CDを買うやいなや「ありがとうございます、ありがとうございます!あの、またライブなんかやってるんで、是非・・・」なんて愛想よく話しかけられた日には、帰って聴いても「いい人だったなぁ」という思いばかりが蘇り、楽曲の荒涼感を損ねるからである。
逆にこちらはCDを買うと云っているのに対応するのは物販のおねぇさんで、自分は脇のスツールに腰掛けて小綺麗なおにゃのこと談笑しっぱなしなどという者がいても、それはそれで高飛車なアーティスト気取りがハナにつき、曲がよくても賞賛する気が失せてしまう。むしろモテるための道具に利用された気までし始めては曲を聴くどころの騒ぎではなくなってしまう。
いつだったかベートーベンの映画で、「あんなに偉大な曲を書けるあの方(=ベートーベン)を拒むことは私にはできません」と云って女がオチるシーンがあったが、そんな理由で人を赦すなどということは普通はムリだ。ステージを降りたボーカルの男が可愛い子と話している時点で「なに、あいつ」って思ってしまうのは人の性なのである。
つまり気に入ったのは曲やプレイであるから演奏者の人格に触れるとまた別の好悪が生じ、せっかくの出会いをフイにする恐れがあるため、ミュージシャンの手から直接CDを買うことは極力避けているということだ。
ましてやサインをねだるなどに至っては、作品にはまったく関係のないことでいたずらに生身の作者へ接近するわけだから、あたらリスクを生じるばかりで何の得もない。
断固たる意志の力で半年以上も酒をやめてきた私であったが、そのときには既にビールで景気をつけていた。
やがて意を決した私は空き缶をゴミ箱に放り込み、壁際のテーブルに腰掛けた男へにじり寄った。
「山本先生、ですか・・・・?」
はい、そうですと山本直樹が答えたかどうか、DJのかける曲がやかましくてその声は聞こえなかった。
「こ、こんなときに申しわけありませんが、よろしければサインをいただきたいのですけれども・・・」
震える手で紙袋から取りだした「フラグメンツ」の表紙をみて、氏は少し笑った。
快諾の返事も周囲に飲まれ耳には届かないが、氏は私の手からマッキーを受け取ると名前を尋ねた。
私は応えた。
すると開かれたページにまず瞳が現れ、次いで前髪が、ショートカットに縁取られた顔が、そして「あの」少女が姿を見せた。
「09, 12, 6 野良パスタさんへ」
山本直樹は最後にそう記し、私の手に彼の著作物(かつ私の所有物)とマッキー(これも一応私の所有物ではあるが、それはどうでもいい)を返した。
ありがとうございますと、気がつくと私は両手をあわせて拝んでいた。
それがまったく理由の説明できない行為だとすれば、それこそがまさに感動の表れであったということでよい。
山本直樹はこの日、私の手に彼のサインを残した。
彼の著作への好悪とはまったく別の次元の好もしさを私の記憶に焼きつけて、彼はまたステージ上でくり広げられている珍妙な演奏の1リスナーへと戻っていったのであった。