新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ハート・オブ・ダークネス。王の気配。

ダッカを出発して2時間あまりの間、車列は進んでは停まりを繰り返した。


市街地はすぐに抜けてしまったが、郊外から水田の広がる農村地帯に入っても道は延々と渋滞が続いている。たまに流れがよくなると、ドライバーは必ずここぞとばかりにクラクションを鳴らしながらセンターラインを飛び出して追い抜きをかけ、対面から迫ってくるバスやトラックをギリでかわして車線に戻る。まるっきり「マリオカート」の対向車ありモードだ。
助手席にでも座っていようものならこれはたまらないだろうが、ドライバーはといえば「深夜プラス1」の主人公を思わせる四十がらみのいいオヤジで、ピカピカのRVは磨き上げられたままキズ1つないものだから、これはどうやら腕に覚えのある男に違いないと30分も経つ頃には冷や汗も引いて、やがてうたた寝をするぐらいにまで慣れた。
常に車間距離50センチでクラクションを叩き続け、総じて運転の荒っぽいバングラデシュでも、どうやら筋金入りと思しきこのドライバーをやがて好もしく思えてくるこの心理状態こそがストックホルム症候群に違いあるまいと思った。

途中、前を行く車が「CNG」と書かれたガソリンスタンドに入った。
CNGとは圧縮天然ガスのことで、この何故か果ての果てまで舗装だけはしっかりしてある田舎の幹線道路を埋め尽くす自動車はそのすべてが天然ガスを燃料にしている。
資源にとぼしいバングラデシュに与えられた、これが唯一の埋蔵金ということのようだ。石を投げれば当たるほど走り回っている日本車も、どうやら動力はCNGに積み替えられているらしかった。
おかげで交通量のわりに空気が綺麗なのだという話を思い出した。云われてみればそうかもしれない。
前の車が「給油」を終えるのを待っている間に車外へ出ていたT氏がドアを開けて「トイレ、行きますか」と尋ねてくれた。
そろそろ少し身体を伸ばしたくもあって車を降りると、スタンドの裏手にある屋外トイレまで総勢4名の護衛がぴったり付いてきた。
「近すぎて気になるようなら距離を取らせますが」T氏は本当によく気の利く人だと感心する。
「いえ、大丈夫です」もうここはバグダッドだと思うことにしている。

もうしばらくすると起きて外の風景を眺めている時間よりうたた寝している時間の方が長くなってきて、たまにふと頭をあげてドライバーが間一髪で対向車をやり過ごすのを確認するとT氏と軽口を交わし、また眠りに落ちるということを繰り返すようになった。
突然バカンとドアが開くのに驚いて目を覚ますと、Aさんが僕に車を降りるように行った。
車を降りたせせこましいロータリーから建物をひとつ回り込むと、そこはすぐ大きな河の河べりで、ここからはボートに乗り換えなければ目的地にはたどり着けないのであった。

新宿メロドラマ。-船着き場桟橋にはひとびとが詰めかけて二階建ての渡し船が出るのを待っていたが、我々はその脇を水辺へ降りた。水草が密生するなかに直接三艘のモーターボートが係留してあった。
勧められるままに船首のシートへ沈み込むと視線は思いのほか低く、水面を覆う浮き草に取り囲まれたように錯覚し、後から来た迷彩服の兵士たちが荷物を積み込むのを見ていると、生い茂る熱帯の植物を背景にしたその光景が、まるで戦争映画の1シーンであるかのように思われてきた。

「『地獄の黙示録』みたいだな・・・・」。

やっぱり思わず云ってしまって、それから深く後悔する。
「みたい」ではない。自分がいままさに南アジアへ訪れているのだというリアリティを表現するのに、お茶の間で観た映画を引き合いに出すとはいかなる了見か。眼前に広がる生の光景に、日常にまみれたフィクションを重ねてしまう自分の歪んだ世界観と弛緩した感受性に深く失望し、僕は恥じた。
発達した交通手段はキミを世界に近づける。
だがテレビはむしろキミを世界からセパレートするだろう。電波で届く世界中のモノにあふれかえったキミの部屋は、実はこの世界のどこにも似てはいない。
テレビを消してその部屋を出ない限り、キミはそれには気付かない。

少年と云ってもおかしくないぐらい若い男が船尾でエンジンをかける。
後進して岸辺を離れたボートは、やがて広大な河の半ばへ出ると川上へ向けてうなりをあげ、走り出した。
新宿メロドラマ。-岸辺
速い。川幅はともすれば数百メートルほどにも広がったが、小さなボートの重心は低く安定しているため不安は感じない。今朝のブリーフィングではここからさらに1時間半ほどということだったか、ボートは渋滞のなかを行くRVとは比べものにならないスピードで水面を走るものだから、これではかなりな距離を行くことになると思われた。

岸辺を眺めると河は周囲一帯に広がる水田地帯から2メートルほど低いところをゆったりと流れていた。
しかしどこをどう見渡しても山かげや大地の起伏といったものは見あたらず、360°とにかく視界の届く限りはこの水面からほんの2メートルの高さに広がる一面の平野であった。
「毎年6月と7月には雨季がやってきます。そうなると河の水位があがって洪水となり、国土全域が水没します」
Aさんが、エンジンの爆音に負けじと甲高い声を張り上げて云った。
僕は納得した。この河はわずか2メートル増水しただけで、とどまるところを知らず地平線の彼方まで膨張して水浸しにするであろう。こうして見る限り、逃げ場はどこにもない。

我々が今朝出てきた首都ダッカですら、海岸から100kmも離れていながら海抜はわずかに7mだ。

「そうなると人々は住むところにも食べるものにも困るようになり、衛生上の問題も発生することになります」。

そして僕は納得する。つまりバングラデシュにとって洪水は災害ではない。それはこの国の王だ。
いわば国土全体が河の中州に位置しているバングラデシュは毎年雨季がくるたびに、必然的に、等しく1メートル、しかし余すところなく、水に没するのだ。
それは我々の知る洪水ではない。
例外なく訪れ、有無を云わさず人々の生活を停止させ、簒奪し、そして二ヶ月の後に肥沃な土地だけを残して去っていく洪水は、この国を律するもっとも基本的なリズムを司る者であり、誰一人逆らう者のない、王なのだ。
なんということだろう。

考え込んでいると、Aさんが肩を叩いた。袋に入った小ぶりなミカンを差し出している。
ひとつもらって皮をむくと、それを河に捨てろという。
「出たゴミは河に捨ててしまうのがバングラデシュのスタイルだって云ってます」T氏が教えてくれた。
ミカンの皮だから捨てて悪くはなかろうが、なんだか気後れしながら船側へ投げ捨てると、同乗のバングラデシュチームが歓声を上げた。
やはり「サティスファクション」が似合う光景だ。懲りずに僕は思った。

これから向かうのがどういう世界なのか、おぼろげながら分かってきたような気がしていた。