新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

絶望の不在。


新宿メロドラマ。-ノルシンディ・バラック

僕とT氏は15名を数える取り巻きを従え、1頭の小ヤギと1人の兵士に先導されて、そのおそらく名もなき村に立ち入った。

後ろでは先ほどまで道の両脇に詰めかけて拍手で僕たちを出迎えた人々が言葉もなく静かに散開して、農作業に戻ったり、どこかへ向かった歩き出したり、あるいは怪訝というよりむしろ無表情のまま後を付いてきたりしていた。


村は、貧しかった。

貧しいというよりも、状態として未開であった。

電気がきていないのは当然だとしても、埃っぽい地面のうえにそのまま柱を建て、または林のなかの樹を利用してトタンの屋根をかけただけの「家」というかバラック、あるいは「バラック」が家の未完成品だとすると、これはもうバラックですらなく、人の手によってわずかの材で作られた「物陰」に過ぎないと思われるものが村人の住みかで、そこここに繋がれた牛や山羊の生活領域と人々のそれとはほとんどシームレス、あるいは同じ空間だった。

もし人々がどういうわけか色とりどりのTシャツやワンピースなどを身にまとっていなかったら、これが500年前の様子だと云われてもさしたる矛盾はなかったろう。

道ばたに出てくる幼い子供たちを笛で威嚇して進む兵士のあとを付いて歩きながら、僕は動揺を覆い隠すのに必死だった。


「これは、貧しいなんてものじゃないじゃないか」


それは驚愕というよりも、激しい戸惑いと、戸惑いによってごく自然に誘発された怒りからなる動揺であった。

貧しさと豊かさ、賢明と愚鈍、善良と悪徳その他多くの二項対立の体系からなる精巧な構造物である僕の世界観。そのまったく外側から突然放り込まれた巨大な異物がこの村であり、村は状態として「未開」だった。

人類の歴史が既に乗り越えてきたはずの光景を突然目の前に突きつけられ、自分の世界観を支える土台であった「近代」を相対化されてしまった僕の精神は寄る辺を失っていまにも溺れそうだった。


自分はカネも権力もない人間だから、何を期待されても困ると、さっき僕は子ヤギに釈明した。

だがこの村ではカネも権力も意味を持たないことを僕は悟った。

この村はスタンドアローンで、貨幣経済を知らないも同然だ。

彼らが身につけている洋服をのぞけば、村で生産できないものを外界との交換によって手に入れている気配はとぼしく、おそらく毎年洪水で流されてはまたこしらえるだけの「住居」をみては、富の蓄積が行われている様子も見られない。

つまり毎年この村は洪水の引いた8月に生まれ、二度の田植えと収穫を行い、6月に再び洪水によって失われ、8月に昨年とまったく変わらぬ姿で生まれ変わる。繰越しも、蓄積も、建設も、よって成長も発展もなし。この絶対零度の輪廻転生をこの村は有史以来繰り返してきたのだ。いや、だからこの村には「歴史」も存在しないに違いないと僕は思った。文字通り「有史以前」をこの村はずっと生きてきたのだ。そして今も。

Aさんが突然僕とT氏を木陰の掘っ立て小屋へ引っ張り込み、入口のカーテンを閉ざして外からの視界を閉ざした。
小屋のなかには背の低い男が一人、むき出しの地面にぼんやりと立っていた。Aさんが年を尋ねると、30代のなかばだと応えた。
「この男性は病気です。彼は仕事ができず、一日中ここにいる他ありません。彼の妻が生活のため、仕事に出ていますが彼は仕事をできないのです」A氏は僕たちに説明すると、男に向かって服を脱ぐように云った。
男が身につけていたスモックのような服を持ち上げると、彼の股間には膨れあがり奇形化した巨大な男性器が膝まで垂れ下がっていた。
目黒の寄生虫博物館にこのような展示があると聞いたことがあった。寄生虫に冒され地面を引きずるほどに肥大化した男性器。
「この男性は医者にかかることができません。この村には医者はいませんし、この村のひとが医者にかかることはなく、薬を手に入れることもできないのです」椰子の実のように硬く腫れ上がった男の男性器に目を落とし言葉を失った僕とT氏にAさんは続けた。「この人は、医者にかかりたいという望みを持ってすらいません。なぜなら医者にかかるということ、自分が治療を受け、良くなるという可能性自体を理解できないからです」

人が絶望するためにはまず希望を理解している必要がある。
望みに手が届かず、叶わないと知ることが絶望だからだ。
だとすると彼らは、絶望よりももっとプリミティブな精神状況を生きているということになる。
救われたいと願うこともなく、苦しみをただ苦しむということ。
死ぬまでの時間を苦しみながら生きるという、ただそれだけの。

何か彼に訊いてみたいことはありますかというAさんの問いかけに、T氏がようやく口を開いた。
「あなたはどうなりたいと思っていますか、どうなればいいと思いますか」英語での問いをAさんがベンガル語に通訳して男に伝える。
放心したように我々の前に立った男は何度かAさんと言葉を交わし、最後に短く何か答えた。
「みんなと同じように働けるようになりたいと、彼は云っています」Aさんが云った。
嘘だ。
このときAさんは通訳として許されざる罪を犯したのだった。
絶望をすらもちあわせないこの男性が希望を語るはずのないことは、僕にももうわかっていた。AさんはT氏の質問をベンガル語に訳して伝えたが、男は質問の意味がわからず問い返した。そこでAさんは誘導尋問をしたのだ。
「あなたはみんなと同じように働けるようになればいいと思いませんか」と。
そして男はイエスと答えた。
だがAさんにも分かっている。男はいまもまだ質問の意味するところを理解できていないだろうということが。
彼の希望を語りたかったのはAさん自身だったのだ。彼らに希望の意味を教えてやってくれないかと僕たちに懇願したかったのは、Aさんの方なのだ。
男はこれからも毎日ここでこうして、畑に出た妻が帰ってくるのを待ち続けるだろう。

カーテンを開けると、村人に遠巻きにされた僕たちの仲間が待っていた。
なかで話されたことも大方は想像がつくのだろう、誰もが何事もなかったかのように、僕たちを囲んでまた歩き始める。
僕はもう、歩いているのがやっとの状態だった。