新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

30年目の帰郷。

たった二本のビールだったが、二日酔いまでにはギリギリの状態だった。

約束通り8時に最上階のクラブへ行くと、T氏はすでにテーブルについて朝食を始めていた。

オムレツを語らせると右に出る者のいない昨日の男は非番のようだ。おかげでコーヒーも一杯ですむ。

思いの丈を抑えきれず夜中まで話を聞かせてしまった事もあって、T氏もさすがに疲れを残していたが、今日はもう昨日ほどハードな行軍ではありませんからと僕を励ましてくれた。


迎えの車は当然のごとく、しかし今日は30分以上も遅れてホテルへ到着した。また輪をかけて凄い渋滞だという。

乗り込むと今度は昨日と逆で、南へ向かって走り出す。

片道一時間半ほど。今度は「ダッカ郊外」と云っても間違いではない地域の小学校が目的地だ。

「先生からのお願いです。生徒が日本のことを知りたがるでしょうから、野良パスタさんに日本についてのスピーチをしていただきたいということです。英語で」

昨日の帰りにこう云われてからこっち、頭のなかで草稿をまとめるのに余念がなく、往路の車内ではこれを仕上げるのが一仕事になる。

車は巨大な高架道路を通ってダッカ市街を出る。この立派な高架は誰が作ったのだろうか。

日本はバングラデシュの最大の支援国のはずだが、ヒモ付き援助で何か役に立つもののひとつでも作ったろうかと思う。Aさんは「知らない」ということだったが、もしや昨日走った道を几帳面にも舗装したのが日本の業者であったとしたら、それには少なからず感謝したい気持ちだった。
新宿メロドラマ。-平野
ダッカ市街を抜けた先の風景は、昨日とは少し違う。

平野を走る一本道であることに違いはないが、北へ向かう昨日の道は、それでも道沿いにレンガ工場や染め物工場、それを出荷する卸問屋、CNGスタンド、ト

ラックのたまり場など小さくても汚くても、とにかく延々と隙間なく何かが建ち並んでいた印象だ。対して南へ向かう道はもっとのどかで、どちらかというと

「田園」というにふさわしいかのような風景が目立つ。

1時間近くも走ると、僕の視界にはなにやら奇妙な景色が見えるようになりはじめた。
熱帯というよりは温帯のように見える林の木々、不整形の入り乱れた水田、細く曲がりくねってはいるが舗装されている農道、その脇の民家、納屋。軽トラック。これはと思い、僕はシートから起き上がるとシャッターを切り始めた。

それは僕が生まれ育った田舎の、まさに僕が子供だった頃の記憶に残る風景にそっくりであった。
僕の田舎は田舎と云ってもそこそこの地方都市から30分、1時間といった「郊外」にあったから、バブル景気を挟みベッドタウンとして劇的な発展を遂げた。
山は切り開かれて新興住宅地となり、建て売り住宅には都市部で働く若い夫婦がどんどん越してきた。
僕の通った小学校もマンモス校から分割されて5年目とか云ったから、それにつれて子供の数も増えている時期だったのだ。
そうやって、僕の少年時代を通じ見る影もなく激変をとげた故郷の町(村だ、村)の、ちょうどいまにも激変が起ころうというときの最後の姿を、僕はうっすらと記憶の底にとどめている。そののほほんとした片田舎の姿がいま、3Dで目のまえに再現されていた。
いつまで経っても「変わらない」世界が嫌で嫌でたまらなくて飛び出してきた僕にとって「そう云えば、昔はこうだった」という感覚は罪深い。


18歳の僕が吐き捨てたように、故郷は変わらなかったわけではない。それは故郷をあとにするために捏造された理由だ。そこは30年前にはいま目の前にひろがるようなど田舎だったのであって、30年後のいまはそれとはかけ離れた町になっているのだから、結局「変わるのが遅かった」か「思うように変わらなかった」というだけであって、そのように口にしてみれば随分身勝手な、自己中心的なそれは言辞であった。




明らかに学校帰りとみられる子供が道ばたを行くのが見受けられるようになってきた。もう少しだろう。


昨日あれだけ「秘境」のたたずまいある集落を訪ねただけに、あたりはあまりにも安穏としており拍子抜けしたが、ダッカからのアクセスを考えれば、しばしばすれ違うオートリキシャや民家に交じって見える雑貨屋、家々をつなぐ電線といった都市化の足音すら頷ける。


向こうに低く横たわる建物と運動場が見えた。田畑のなかに高く盛り土をして作ったようなあぜ道が一本、道路からそちらの方へ延びている。懐かしいとは思わないが、やはりかすかに既視感があった。


「着きました。子供たちがあなたを待っていますよ」Aさんが振り返るといたずらっぽく笑ってみせた。