新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

Eのためのノート。

僕は初めてEに出会った日のことを鮮明に覚えている。

まだ駆け出しの管理職だった僕に突然、僕が採用したわけでもなく、僕の部下になるわけでもない新入社員のオリエンテーションが回ってきたのだ。

「うちの会社はほら、いろいろ複雑だから、野良パスタさんがうまいこと説明しといてよね」と理由にならない説得でささやかな抵抗を押し切られ、僕は2人の女性にオリエンテーション、すなわち我が社の膨大なローカルルールを授ける儀式を承った。

2人のうちの1人が、Eだった。

直前に渡された履歴書を慌ただしく読み下すと、そこにはEが勤めた会社が2社続けてまもなく倒産した事実が記載されていた。幼い頃におぼえるちょっとした法則に従えば、うちが3社目になる可能性は否定できず、僕は禍々しい予感に身を震わせた。


結局僕は昼食のための休憩を挟み、3時間以上もしゃべり続けた。

ホワイトボードに様々な組織図やキーワードを書いては消し、事業概要から市場環境、社内にあまたある部署の職掌に、それぞれの部長がいかなる気質でどう対処すべきかにいたるまでを語り尽くした僕のオリエンテーションは、むしろ出していいものなら一冊本にして社員食堂の入口で売ろうかしらと思うほど壮大な叙事詩になった。

何度も汗をぬぐいながら話す僕とホワイトボードを、腕組みをしてメガネの奥からじっと見ていたEをいまでも思い出すことができる。


案の定、その後まもなくして会社は潰れた。

しかし多くの人の勇気によってそのすべてが失われることは妨げられ、僕たちは残った仲間とともに再出発することを許される。

そこにEはいた。

そして昨年まで、ついに5年半もの間、Eはそこにいたのだった。

その月日は僕からある種の無邪気さを奪い、Eが会社を去ることはEが会社へやってきたあの日のことほど僕を動揺させなかった。


Eは苦しみを生きている。

人にとって苦しみとは生きながら味わうものだが、また時として人は、苦しみそのものを生きなければならないことがある。


Eの「日記」と称されたあるウェブページに、僕はEのための短いノートを残す。


人間には、時間の止まった世界を想像することができない。

同じように人間には、自分が他の人間に生まれ変わって生きているところを想像することができない。 「自分」はあまりにも細かいところまで自分であって、「自分」はまたあまりにも幅広く自分だからだ。

平凡な人生を送ることだけはまっぴらだと思って生きてきたら、「死んだ方がマシだ」と思うような目にも何度か遭った。

でも「最初から生まれてこなければよかった」と思ったことは一度もない。

そんなことを考えるときはいつも、少なくともそれだけは親に感謝しなければならないと思うし、それ以外のことなら全部、誰のせいにするでもなく引き受けて生きていけると思うのだ。

どうもありがとう。


そこにはひとつだけ嘘が含まれている。だがそれは僕だけの秘密だ

人はみな頭蓋骨に守られた幻想のなかを生きている。

大切なことは、僕たちは誰かの記憶に残ることができるということなのだと思っている。