どうしても通らねばならぬ道がある。
子供たちは「桃太郎」や「赤ずきん」を読んでおかなければ世の物語を貫く基本的な筋道を理解することができないし、バーテンダーになったって、せめて分数の足し算ぐらいはできないとどうにもならない時がくる。
どんなにつまらないと分かっていても、すでに結末を聞いていても、その意味するところを身にしみて理解していたとしても、観ておかなければならぬ映画があり、読んでおかなければならぬ書物がある。
ヴェンダースの「パリ、テキサス」やストーンズの「悲しみのアンジー」、三島由紀夫の小説(私は三島由紀夫を読んでいない)がそれだ。
「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
」は私にとり、やむなく読む以外ない書であった。
「ドラッカーの『マネジメント』」が何を意味するかぐらいは知っている私が現代の古典と女子高校生の組合せに反応することを知って付けられたこれはタイトルであるし、そういう「私専用」のハニーポットにあえて落ちることは日常的なアイデンティティのメンテナンスによい。
ところで「専用」という言葉に優越感をおぼえるようになったのはシャアの影響だ。
普段経営書やビジネス書といった類のものを、私は一切読まない。一般にこれらは役に立たないと考えているからだ。
こうした書物は「どうすれば成功するか」「どうすれば物事がうまくいくか」を様々なかたちで論じている。だが読む前と読んだ後で、成功する確率はおそらく変わらないだろう。なぜか。
それはこれらがすべて成功者によって書かれているからだ。
成功者は自分が成功した道のりを、よかれと思って一般に知らしめ、その道をこいと誘っている。だが彼と同じように成功するためには、彼とおなじ時代に同じ環境で同じことをし、同じ幸運に恵まれなければならない。
長嶋茂雄も云っていた。
「長島」とは1人の野球選手のことを指すのではなく、高度経済成長に沸いたあの時代に大衆の期待と熱狂が作り出したキャラクターのことなのだと。
エジソンになるためにはまず19世紀に生まれ、難聴をわずらわねばならないと、そういうことだ。
だから私はビジネス書の類を読まない。
「出世するための10箇条」という本を読んで、10箇とも実行したって出世するわけではない。
他方「会社をクビになるための10箇条」という本があったとしたら、遅くとも3つ目を実行する頃には確実にクビになるであろう。
つまりこの茫漠たる世界に成功への道は数えるほどしかなく、失敗への道は無限にあるというわけだ。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」とは野村監督の格言だ。
勝者にしても、自分がなぜ勝者たりえたのかなど分からぬほどその道は細く、謙虚で現実的な者はそれを「幸運だったから」こられたのだと答える。ただ自分語りというのはいつも気持ちのいいものだから、自制のきかないやつが「出世するための10箇条」みたいな本を書いているだけで、たいていの場合、それはただの日記である。
その点ドラッカーは謙虚だ。
それは彼が経営者ではなく学者であったということにもよろうが、彼は「あれをこうしろ」などと指図するようなことは慎重に避ける。
ドラッカーはいかなるレイヤーであれ一度でもマネジメントに携わった経験のある者であれば必ず思い当たるような云い回しでもって問題に触れ、常に「本質」に迫る真摯な筆致で(本書を読んでもわかるが、結局のところ「真摯」というのがドラッカーの「マネジメント」において非常に重要なキーワードであって、それはドラッカーの語り口が誠に真摯であることからも伝わってくるのである)「重要なのは、こう考えることだ」と諭してくれる。
見事なのは誰もが自分の経験に置き換えることができるほど想像力に訴える言葉遣い(おそらくは、名訳!)で、高校野球の女子マネージャーにこれを読ませようという発想も荒唐無稽と云いきれぬほどに、その示唆するところはあまねく人の(組織の)営みに及ぶ。
ドラッカーは「人間は悲しいほど弱い」と云い、それでも人が生産的であろうとするとき、その弱さを補うために組織があり、マネジメントが必要とされるのだと語る。
それは一見「経営書」のはしりであるかのように見えて、しかし悲しいまでに真摯で深い人間に対する愛の告白である。