新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ドゥ・ザ・ライト・シング。丸山議員の発言に触れて思うこと。

あまりにもブログを更新していないので、さすがにヤバいと考えてキャラクター外の記事を書く。

 

ボストン生活が好調だ。

東京から台北那覇・大阪と出張を重ねたあげく、広島で最終の新幹線を逃して駅前のホテルに宿泊、翌日5時の始発で大阪のホテルを引き払い、さらに伊丹から羽田、羽田から成田、成田からシカゴで、ボストンという鬼の乗り継ぎを繰り返してたどり着いたわりに、次の日からは何事もなかったかのように一日三度の食事を作り、1時間10kmのジョギングをし、掃除して買い物して、仕事をすればここ数年なかったぐらいの高い集中力で仕事ができている。

ただブログだけが書けない。

1日30分の勉強タイムと、1時間の英書講読を優先しているからだ。

フミコフミオさんと違い、私は短時間でブログを書くことができない。残念だ。

 

自民党の丸山議員が自身の暴言を謝罪。

すばやい謝罪は評価できるが、何をどう謝っているのかが分からないのはいつもの日本の国会議員だ。

「信じられない」とか「文意自体に誤りはない」とか「そもそも事実誤認」だとか、いろんな切り口でのコメントがSNSにあふれている。

もちろん記事のなかにもあるように、バラク・オバマ大統領はケニア出身のエリートと米国人女性との間に生まれた子なので黒人奴隷とは何の関係もない。

だが、この問題の本質はそこではない。

丸山議員と、彼の発言に違和感をおぼえることのない人々の問題は、この世界の根本的な多様性を理解していないということにある。

こういう人たちは、均質な社会に生きているという幻想に慣れているため、米国社会が多様性を維持し、抱え込んでいくために、いまもどれほどの努力を払っているかということを理解できないのだ。

だが、米国において過剰に表現されている多様性こそが、人間社会の本質的な姿だと僕は思う。

 

まず「黒人」という表現が論点になる。

ひとが誰かのことを「黒人」だというとき、彼/彼女は、「自分はひとを肌の色で区別する人間だ」ということを明らかにしている。

もちろん人はいろいろなかたちで形容されることがある。

男だとか女だとか、ハゲだとか背が低いとか、いろいろなことをいわれるわけだが、しかし肌の色でひとを区別することは、まさに肌の色による熾烈な差別がおこなわれてきた米国の歴史に鑑みれば許されないことだ。

こういうことをいうと、

「男と女の区別はいいのに、なぜ白人/黒人の区別はいけないのか?肌の違いは科学的な事実ではないのか?」

というひとがいるのだが、ここで大切なのは科学ではなく、人類社会を統合しておくための倫理だ。

「政治的正しさ」というのは、もともとはそういうことをいう。

政治的正しさを擁護するひとびとは決してバカでも目が悪いのでもなく、社会に安定をもたらしているものは、しばしば目に見えないということを認めているだけだ。

日本の場合は、単一民族国家だとか、天皇が国民を統合しているとかいうよくわからないことを云って多様性を圧殺することで社会が成り立っているわけで、その精神的コストがしばしばラッシュ時に電車を止めたりしているわけだが、米国社会は人間は多様であって、自由であるという、この倫理・理念によって統合を維持している。

だから、オバマが大統領の座に就いたことの衝撃を、丸山議員がまさにそれを衝撃として受け止めたのであれば、彼は米国社会の成り立ちを正しく理解していることを示すためにも「非白人の大統領」または「ながらく差別を受けてきたアフリカ系アメリカ人の大統領」と表現することが必要だった。

差別する側であった白人がマイノリティ化していき、あるいはアフリカ系アメリカ人やヒスパニック、アジア系移民と混じり合っていくダイナミズムこそが、米国社会の驚くべき一端を示しているのは間違いないからだ。

それを「黒人奴隷の子孫が大統領になったのはすごいことだ」と表現すると、それはそのまま、丸山議員が米国の本当のすごさを理解もしていないし、大切にも思っていないということが明らかになってしまう。バカのシグナルがあがってしまうのだ。

 

次に「奴隷ですよ」という部分。

米国で奴隷解放宣言がなされたのは1862年で、65年には南北戦争が終結して名目上の奴隷制度が廃止された。

定義上、このときから米国には奴隷は存在しない。

だがその後1964年に公民権法が制定されるまで、実に100年のながきにわたり、アフリカ系アメリカ人はさまざまなかたちで差別の対象にされ続けたのだ。

当然のこと、彼らはすでに奴隷ではなかった。

なかにはそれこそバラク・オバマのように奴隷の子孫ですらないものもいた。

にもかかわらず、彼らはまさにその肌の色ゆえに差別され続けてきたのだ。

これは2016年のいま繰り広げられている米大統領選においてなお "Black Life Matters"(黒人の命を守れ)という強烈なメッセージが取りざたされるほどに深刻な、米国社会の抱える問題だ。

※なお"Black Life Matters"というスローガンはBlackという単語を含むが、これ自体アフリカ系アメリカ人にしか口にすることを許されない表現だ。

いまも米国の街角で、検挙にあたって謎の死を遂げたり、警官による違法な発砲によって殺害されるアフリカ系アメリカ人たちは、「奴隷の子孫」だから殺されるのかと考えてみれば、答えはノーだろう。

奴隷制度はすでにはるか過去のものとなり、公民権運動が多大な犠牲のもとにその成果を勝ち取ってから半世紀を経てなお、アフリカ系アメリカ人社会にとっては文字通り生命にかかわる問題であるこの差別を、「黒人 = 奴隷の子孫」というグロテスクな図式にあてはめて口にした丸山議員の、これは見識の問題だ。

アフリカ系アメリカ人は奴隷ではないし、奴隷の子孫だから差別されているのでもない。

もっといえば、仮に「科学的事実としては」奴隷の子孫がいたとしても、そのひとは、自身名前のある一個人であって、その人生は奴隷であった祖先とは何の関係もない。

それが、現代的な意味において人間が「自由である」ということだ。

しかし、それにもかかわらず肌の色をめぐる差別が根強く続き、社会のなかで構造化されてきた様は米国の恥部である。

そして同時にこれは、「差別は、何を理由にして、どのようにでも起こりうる。そして一度生まれた差別は容易に固定化し、多くの場合、ひとの命を奪うことすら正当化する」という人間社会の忌むべきひとつの側面を我々に示し、戒める教訓なのだ。

公民権運動を戦った「黒人」たちは、奴隷ではなかった。

彼らが奴隷の子孫であることすらもすでに問題ではなかった。

それでも彼らは「差別される者たち」だったのであって、彼らはただ「差別される者たち」として、その差別にあらがい、人間の醜い方の本性と戦ったのだ。

だから、「黒人はかつて奴隷だった」「その黒人が大統領になるのはすごいことだ」という表現は、たとえ論理として大きく間違っていなかったとしても、発言者が歴史を軽視する、人類愛に乏しい人物であることを明らかにしてあまりある。

これは端的にいえば、発言者の精神構造はうえに述べたような米国の歴史をまだ経験しておらず、自分の発言が、それ自体差別の尻尾を生やしていることに気づいていないということを意味している。

ましてやこういう人間が憲法審査会に出席するというのは、完全に間違いだというのが僕の考えだ。

 

なお、ここまで云っておいてなんだが、「こんな人物が日本の国会議員だなんて、世界に恥ずかしい」という方は、そこまで気にしなくてOKだ。

米国は世界でももっとも多様性を尊ぶ社会を有し、ゆえにそうした意味ではもっとも進歩的だが、それでも丸山議員と同じようなことを云うひとはいるし、大統領選にまで出ていたりもする。

また、同じ先進国でも欧州へ行けば、差別ではないにせよ階級社会が隠然と維持されていたりすると聞くから、そういった人からすれば丸山議員も「マナーがなってないな」というレベルで、特段おかしなことだと思われることもないだろう。それこそ奴隷制度とは関係なく、彼らは非白人を単に差別し続けているからだ。

だから、そうしたひとびとの目を気にしてどうこうするということではなく、日本にもより多様性に寛容で柔軟な社会を築いてみんな楽に生きるために、こういう議員の首はやはりすげ替えろというのが僕の結論だ。

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