今回もホーチミンシティ・東京出張が終わる。
前回はいろいろと思うところもあるタイミングだったため、東京では宿をとった歌舞伎町への思いがたぎり、某腐れSNSで昔語りを延々と連投した。
恥ずかしいのは恥ずかしいが、もう許されていい歳だと思う。
もし歌舞伎町という街がなかりせば、いまの僕らもいないであろう。
「僕ら」というのはあの頃一緒に仕事していた若者達のなれの果てだ。
まるでこのまますべての昼と夜を征服できると信じていたかのような、まじめで無謀な一群のサラリーマンたち。
そしてもしかしたら、あの頃僕らは本当にいくつかの昼と夜を自分のものにしたのかもしれない。
歌舞伎町の老舗居酒屋「囲炉端」は閉店したままだ。
「お前たちがいままでに囲炉端で払ったカネをすべて足せば囲炉端が買えていたであろう」
と云ったひとがいて笑ったが、実際には買ってリノベーションまでできたと思う。
マスターのナカちゃんが自宅の風呂で脳溢血を起こして死んだとき、僕たちは囲炉端の経営権を取得しておくべきだったのだ。
供養にもなっただろう。
いまはどうだか知らないが、当時の歌舞伎町というのは道ばたにヒリヒリするような物語が転がっている街だったと思う。
なかにはもう息をしていないものも少なくなかったが、多くはまだ生きていて、必死に取って食うものを探していた。
そうした物語たちはみなスーツやドレスで着飾って、そして恐ろしく魅力的だった。
近付いた者を飲み込もうと待ち構えている、その様子すらも。
いま思えばわりかし危険な遊びをしていたのだろう。
無傷とは云わないが致命傷を負わなかったのは僥倖だった。
飲み慣れたオヤジのエピソードとして僕のランキング一位に輝いているのは、カードが限度額に達して使えなくなっていたためキャバクラで免許証のコピーをとられ、「明日払いにきてください」と云われて店を出たあと、その免許証をもって次の店に飲み行ったひと。
「これでも飲めるんだ・・・」とつぶやいていたという。
実にいい話だ。
当時の経費申請は完全なザルで、キャバクラの領収書を週に八枚出しているやつもいた。
あまりにも経費が出ていくので、社長が「『税金で持ってかれるぐらいなら使った方が得なんだ』と吹聴しているやつが、必ず社内にいる。見付け次第殺せ」と云っていた。
結局、税務調査で「この領収書の○○観光っていう会社ですけどね、社長。これは風俗店ですよ」と指摘を受けた社長が「さすがに勘弁してくれ」と云いだし、あるときからは厳しくなったというか、普通の会社並みにはなった。
経費問題でいうといまでも納得がいかないのは、関連会社でマッサージチェア(五十万円)を購入したバカ社長がおり、親会社の経理に蹴られた領収書がなぜか僕のところへ回ってきて、現金でその領収書を買い取らされた件だ。
カネはともかく、だったらマッサージチェアは俺のものだろうと思ったが、気がついたら他の人が使っていた。
僕は経費で酒を飲んだことがない。
そればかりかこのマッサージチェアみたいな事案で謎にカネを払うハメになることが多い立ち位置だったのだが、あとで聞くと周囲は僕がそれも経費で処理していると思い込んでいたらしいとわかり、激しくガッカリしたものだ。
カネの使い方は、ひとからの見られ方を意識して、という学びがあった。
「囲炉端へ集合→キャバクラ→キャバクラ→野郎寿司またはおかめ食堂→4時帰宅」というのが基本パターンの毎日で、そのあちこちで知り合いに会うという嘘みたいな街が歌舞伎町だった。
なおキャバクラをハシゴしているのは、当時は二十三時閉店の店と午前二時閉店の店があり、一軒目が閉まったら遅い方の店へ移動するからだ。
先日みたら、おかめ食堂も、もうなくなっていた。
明け方にオムライスとしじみの味噌汁を吸い込みながら「MONSTER」を読んでいたのを思い出す。
毎晩のようにくるわけだからすぐに読み終えそうなものだが、劇的に酔っているため昨夜どこまで読んだか忘れている。
帰る直前に少し酔いが醒めてくると、ようやく「あっ、これゆうべ読んだとこやんけ!」と気付くのだが、そこで帰ることになる。
こうして同じところを何回も読むので全部読み終わるのに三年ぐらいかかった。
云うまでもなく僕はキャバクラにドハマリしていたのだが、それでも一人で行くようなタイプではなかった。
必ず誰かを連れて行くのだが、結局そのひとと話し込んでしまうので「うでさん、何しにキャバクラ行ってるんですか。相手も女の子と話したいと思うんですよね。うでさんと話すんだったらキャバクラじゃなくてもいいし・・・」と注意されることが多かった。
まぁこれはいまもそうだ。最近はまず行かなくなったけど。
朝(というか昼)起きたときには布団のなかで(今日はキャバクラには行かないぞ・・・)と誓うのに、二十時になれば必ずどこかの店に入ってしまっているという、はっきり云って病人の生活だった。
二十時といえばキャバ嬢の出勤より早い。
僕が払うわけなので一緒に付き合ってくれる相手には困らなかったが、さすがに大晦日には誰もつかまらず、仕方なくひとりで行ったのを覚えている。元旦は店がやってなかった。
もちろんその時々で「本拠地」にしている店はあったが、特に指名のない店でフリーの娘を相手にしていい加減な話をするのも嫌いではなかったので、あえて指名をしないようにしている店も多かった。
こうした店では、自分とはまったく違うペルソナをいまにうまく語れるかというトレーニングを己に課していた。
一番好きだったのは、そして一番よく使ったのは「サーカスのプロモーターである俺」というペルソナ。
これはもちろん「何のお仕事されてるんですか?」がキャバクラでは定番のアイスブレイキングだからだ。
最初はラスベガスでシルク・ド・ソレイユを見たばかりだったので思いつくままに口から出任せを放ったのだが、そのうち徐々に自分がハマっていき、最終的にはきわめて精緻な物語ができあがっていた。
僕の母親はアメリカのミネソタ州へ留学しているときに日本人の父と出会い、僕を身ごもった。
父はドサ廻りの一座を手伝うサーカスのマネージャー。
アメリカ中を渡り歩く流れ者の一味だったから、母の両親はもちろん結婚に反対した。
だが、母は当時でアメリカへ留学して、サーカスのマネージャーと恋に落ちるような女性だ。
決心は固く、大学の卒業も待たずに僕と両親はサーカスと旅する暮らしを始めたのだった。
云うまでもなく、それは変わった暮らしだったが、それが変わっていることに気付くまでには時間がかかった。
一座に子どもは僕だけで、変わり者ばかりの一座は僕の大家族であり、生まれたときから世界のすべてだったからだ。
なにぶん子どもっぽい人も多かったからそこここで喧嘩は絶えることがなかったが、みんな僕にはよくしてくれたし、両親も幸せそうだったと思う。
どこまでご存じかは知らないが、この手の小さなサーカス団ではメンバーはしばしば入れ替わるものだ。
ひとつの街にしばらく滞在していると、ある日サーカスへ戻ってこない者がいる。
たいていは女(あるいは、男)ができたのだ。
そうすると父は困ったような顔ひとつせずに演目を入れ替えてその晩のショウに備える。
ただし、その街を出ようというときには少しだけ妙な間が生まれるのだった。
もう準備は整い、あとは三台のトレーラーとバスのエンジンをかけるだけという段になったとき、誰もがなにかに気を取られたふりをして、黙ってタバコを吸っているような時間。
彼が帰ってこないかと、待っているのだということは子どもの僕にもわかった。
僕は「恋」とはそういうものだと学んだ。
家族の誰かが恋をするたび、旅する仲間が入れ替わる。
恋をして、その街にとどまったひとがその後、どうなったのかは誰にも分からない。
サーカスを去ったひとのことを話さないのは、一座の暗黙のルールだった。
そしてある年の春、雪が溶けたばかりのミシガン州の湖畔の街で、僕は初恋を経験する。
サーカスがテントを張る裏手にあった、ささやかな遊具を備えた小さな公園に、毎日やってくるおしゃべりな女の子に僕は惹かれ、毎日早くから、ブランコを漕ぐフリをしながら彼女が現れるのを待つようになった。
彼女の家は公園の脇にあり、僕の父はそこへテントを構えるにあたって彼女の両親と何事か相談をしていたようだった。
一度だけ、僕は父と一緒に彼女の家へ寄ったことがある。
映画にでも出てくるような、典型的なアメリカの一家が暮らす真っ白な家だった。
ある日、女の子は僕に、あなたの家はどこなのかと尋ねた。
僕は少し驚いて、そこに建っているテントを指さして見せた。
彼女はけげんな顔をしたが、礼儀正しかったからか何も云わなかった。
やがて日が暮れ、サーカスに人が集まり始める頃、彼女は僕を相手に話をするのをやめてブランコを降りると「また明日」と家に帰っていった。
次の日は、サーカスがこの街を発つ日だった。
朝早くテントは片付けられ、彼女が目を覚ました頃には、僕たちは跡形もなく消え去っているだろう。
だけど僕はそれを彼女に伝える術を知らなかった。
僕たちは、あまりにも違いすぎたからだ。
「また明日」と彼女に応えたとき、胸のなかで何かが身震いしたのがわかった。
サーカスでは、誰かに何かがあればすぐにみんなが気が付いた。
だから僕に何かがあったのだということは、両親にだってすぐに分かったことだろう。
それがきっかけになったのかどうかは分からない。
だがその年の夏が去る頃、僕たち家族の長い旅は終わる。
西海岸の海辺の街で母が云った。
「あなたは学校へ行くのよ」と。
「学校へ行く」というのは、母が僕を日本へ連れ帰り、そこの小学校へ通わせるということだった。
サーカスも、長い移動も、たまに連れて行ってもらえるダイナーの朝食もない生活を想像するのは、はっきり云って僕には不可能だった。
そして何よりも父と別れて暮らすということを想像するのが。
僕の手を引いて十年ぶりに日本へ帰った母は実家に近い関西の田舎町で僕を育て、僕はみんなと同じように学校へ通った。
なにぶん子どものことだ。サーカスの暮らしはすぐに過去になった。
僕の知る限り、帰国して以来、母は一度も父に会っていない。
聞いたわけではないが、おそらく離婚をしたとかいうことではないのだと思う。
僕が東京の大学を卒業し、就職を諦めて父のところを訪ねてみたいと云い出したとき、母は黙って父の居所を教えてくれたからだ。
父と、それからサーカスのいるところを。
十六年だ!
身も心も日本人の僕に、抱きしめてきた父親の歓迎はむずがゆいものだった。
サーカスにわずかでもおぼえのあるメンバーはひとりも残っておらず、小さな頃から母に一座の話を聞かされ楽しみにしていた僕は少なからずがっかりした。
思いがけず再会することができたのは、年老いた象のトーマスだけだ。
僕はもう大人だったから、昔のように可愛がられることはもちろんなかった。
それはとりもなおさず、僕もある種のメンバーとして一座に迎えられたということだ。
それは誰かと少し仲良くなって、他の誰かとは少し険悪になるということだった。
なかでもひどかったのはナイフ投げの若い男で、それは僕が日本語を教えていた曲乗りの女の子に彼が惚れていたからだ。
何度かひやりとすることもあったが、父は何も云わず、知らないふりをしていた。
逆によくしてくれたのはコックのジェフという男で、それは一座のなかでもステージにあがることのないのが彼と僕だけだったからだ。
まもなくジェフを手伝ってみんなの食事を作り、トーマスの世話をするのが一座での僕の仕事になる。
サーカスの男達には怪しげな自慢話が多かった。
ジェフのそれは若い頃に貨物船へ乗り込んで飛び回った世界の国々の話。
上海、トーキョー、タンジール、ボンベイ。
食後にジェフが僕を相手に話す思い出話はどれも痛快で、胸が躍るようだった。
海外のことをまったく知らないみんなも周りでよく聴いていた。
つまらなそうに爪を磨いているナイフ投げですら耳はこちらに向けていたぐらいだ。
僕がサーカスへ戻ってから二年が経った頃、トーマスが死んだ。
何歳だったのかは誰にも分からない。
象遣いの小男は悲しんだ。
ささやかなお葬式をやり、保健局のトラックがトーマスの亡骸を運んでいったあと、僕とジェフを相手に象遣いは深夜まで泣きながら酒を飲み、酔い潰れて寝た。
象遣いが寝た頃には僕もジェフもずいぶん酔っていたが、不思議と高ぶる気持ちがあって寝られそうになかった。
飲み直そうかと声を掛けたが、テーブルの向こうでジェフは、テントの隙間から外の暗がりへ目をやったまま返事をしなかった。
象遣いのヤツ、いつもはジェフの話が大好きでおおはしゃぎする陽気な男なのになと、また一人で飲み始めた僕が云うと、今度はジェフがこちらを向いた。
妙に醒めた空気になった。
僕が黙っているとジェフは、俺はアメリカから一歩も外に出たことがないとポツリと云った。
僕は驚いてひっくり返りそうになった。
アヘンの煙が立ちこめる上海の暗い路地裏やタンジールのバザールで繰り広げられた逃走劇は、アカサカのホテルでベースを弾いたご機嫌な夜は、マヨルカで彼を待つ人妻は、いったいどこへ?
つまるところ、ジェフも立派なサーカス芸人だったわけだ。
僕を相手に夜な夜な語った話のすべては彼の大ボラであり、美しい夢だったのだ。
お前は日本にいたんだろう、と重苦しい調子でジェフは云った。
日本へ帰れ。
旅するサーカスは、結局どこへも行きはしない。
サーカスは閉じられたサークルを回り続けるだけで、どこへも行けはしないのだからと。
翌朝になると、ジェフは姿を消していた。
今回はさすがの父も頭を抱えているようだった。
サーカスにコックの代わりはいないからだ。
僕がやろう、と僕は名乗り出た。
トーマスの世話がなくなって、時間はできるだろう。
それから、僕は父に云った。一座を連れて、日本へ行こうと。
父と団長の話し合いはすぐについた。
もともとこの二人はあまり深刻になるタイプではない。
要するに、問題はカネだ。
学生時代にイベントの催行会社でアルバイトをしていた僕は、そこから社員になれと誘われた経緯もあって、興行の世界にツテがないわけではない。
しばらくして一座が新しいコックを見付けると、僕は一人日本へ戻ることになった。
云うまでもなく、ことは簡単ではなかった。
しかしこちらはもともとがドサ廻りの一座だ。
たいしたおカネが必要なわけではないという強みはある。
東京では門前払いだったものの、地方には脈があった。
寂れた遊園地や一夜限りの夏祭、小学校のイベントごとなんかをとりまとめた日程は全国を移動する長大なものになった。
二ヶ月にわたるツアーがいかに大変なものだったかに時間を費やすのはやめよう。
二度とくるなよと警察から釘を刺されたところもひとつやふたつではない。
そうでなくても、個人でだってもう泊めてくれない出入禁止の宿も全国に、無数にある。
まぁ要するに、こうしたトラブルにまつわるあれこれが、僕の仕事になったわけだ。
父の一座がアメリカへ帰ったあと、僕は東京に残って自分一人の会社を立ち上げた。
いろいろなことがあったが、生まれ育った日本でサーカスの一座と旅する生活には、どうにも心惹かれるものがあったから、もう少し「夢の続き」をみたいという思いがあったのだ。
食っていくためには色んなことに手を出したが、やがて少しずつ海外から連絡が入るようになった。
はじめは父から話を聞いたというアメリカの小さなサーカス団から、それからヨーロッパのジプシーの流れをくむような旅の一座や、東欧の少し大きなサーカスまで。
彼らのためにツアーを組み、束の間一緒に旅をするのが僕の仕事だ。
こんな話を短くても一時間あまりにわたって聞かされるのだから、女の子たちはカネに見合った仕事をしていたといえる。
ただ、これだけの話をするためにはフリーで入っても彼女たちを場内指名しないといけないわけだが、この手の店に指名で戻ることはまずなかった。
こうして「夕方からのお友達」と過ごした時間の多くは忘れてしまった。
だけどそれがいまの僕に強く影響しているのは疑いようもない。
もし僕に絵が描けるなら、ドガかロートレックのようにあの頃の夜を描きつけたろうけれども、残念ながらそれはかなわない。
だからこうして少しだけ、当時のことをつぶやいてみたかったというだけのエントリだ。